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第52回 達人

漆器のある暮らしを、これからも
鷹休雅人さん

第52回 達人「漆器のある暮らしを、これからも①」鷹休雅人さん

魚津漆器の歴史

漆器のお椀

魚津には、かつて漆器に関わる人がたくさんおられました。富山県西部の高岡などに比べると、魚津に伝統産業のイメージはあまりないかもしれません。ところが、起源は室町時代といわれるほど古く、漆の特産地、かつ木地の材料となる木材も多く産出する新川地方では、これまで多くの漆器が作られてきたがです。
漆器産業が盛んになった背景には、魚津のまちの成り立ちが関わっとります。その昔、旧魚津市街地の中心部にはお城がありました。当然、武士も存在したがで、城下町では器だけでなく武具や道具などでも漆が必要とされました。そうした需要があったことで、漆にまつわる産業が発展してきたと言われとります。
明治後期頃になると“魚津漆工会”が結成され、職人の技も向上、魚津塗りは「堅牢・安価・実用的」を特徴として全国に知られるようになったがです。魚津の山間部には、木地師にゆかりのある“木地屋神社”も残っとるそうです。山から木を出す人、木地を作る人、漆を塗る人。漆器は、いくつもの職人の仕事がつながり作られていきます。今に残る魚津漆器は、衰退の危機もあったがですけど、職人たちがそれぞれの技をつないで今につながっとるがです。

漆器のまち・魚津

こうして魚津に根付いた漆器産業ながですけど、時代の変化とともに少しずつ姿を消すことに…。大きな転機の一つが、昭和31年(1956)に起きた魚津大火でした。
火事では、漆器作りに使っていた道具や家具までもが焼かれてしまったがです。一度失った道具をそろえ直して仕事を再開するには、大きなお金がかかります。そのため、そこで仕事をやめてしまった職人も多かったがだそうです。
さらに、その後の高度経済成長期には、若い人たちが大企業の工場などへ就職するようになりました。細かな手仕事を続けるよりも、安定した企業で働く道を選ぶ人が増え、漆器の職人は少しずつ減っていったがです。
そんな中で鷹休漆器店が残ったのは、祖父の代に販路がしっかりと築かれ、商売として成り立っていたことが大きかったがだそう。残れる人と、残れない人。時代の流れの中で、その差が少しずつ広がっていったがですね。

伝統を残すというのは大変なことじゃのう。

職人をめざして輪島へ

鷹休雅人さんは、魚津漆器の伝統を受け継ぐお店の4代目。小さい頃から間近に見て育ったとはいえ、それで職人としての仕事ができるわけではありません。魚津工業高校を卒業後、石川県立輪島漆芸研修所専修科に入学し、まずは2年間、そこで基礎から学ぶことにされました。
しかし、夏休みに所外研修に出向いた先で、鷹休さんは新たな決断をされます。輪島の職人の世界には徒弟制度が残っており、一人前になるには親方のもとへ弟子入りして4年間修業する必要があったがです。研修所が作家・芸術家を育てる場所だとすれば、自分が家に戻ったときに必要なのは、家業として仕事を続けていける技術。年間に数個の作品を作るのではなく、200個でも塗れる力を身につけなければならないと考えた鷹休さんは、徒弟制度が残る一般企業に入社することにされたがです。
修業を続け、一人前と認められた後も輪島で技を磨き続けた鷹休さんは、7年後に魚津へ戻ってこられました。職人としての技術だけでなく、仕事として漆器を続けていくために何が必要なのか。その答えを探した輪島での日々が、鷹休さんの原点になっとられます。

鷹休雅人さん