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第51回 達人

当時の暮らしから米騒動を知る
大成勝代さん

第51回 達人「当時の暮らしから米騒動を知る②」大成勝代さん

メディアの影響力

どの時代でも、メディアは世の中の出来事を伝えるとき、表現方法を工夫することで世間からより注目を集めます。大正7年(1918)7月25日の富山日報では、「米は詰ませぬ。魚津の細民海岸に喧騒す。細民が困窮しおれる窮状を察すべし。汽船空しく出帆」と掲載。貧しい人たちの「米は詰ませぬ」という抗議により、大きな船が港を後にしたという驚きを記事にしとられます。8月以降になると、今度は高岡新報が「越中の女一揆」、「女軍米屋に迫る」などのキャッチフレーズを記事につけて取り上げたがです。すると、夫に仕えて生きている女性がそんなことをするはずがないという当時のジュエンダー観や、メディアによる世直しの訴えが民衆の心を揺さぶり、全国へと瞬く間に広まったがだそう。
当時の世相をからすると、この記事がなくても遅かれ早かれ全国で米騒動は勃発しとったがです。でも、メディアによって全国に広まったのが富山の米騒動。これにより、中央政府も初めての米騒動が富山だと認識したことで、歴史的にも有名になったがです。

大成勝代さん
市姫:富山が米騒動発祥の地といわれる経緯が見えてきたがです。

米騒動の終息

米騒動の記事は反響が大きかったため、富山の新聞社は毎日この騒動を取り上げとりました。なかでも高岡新報は、新聞で取り上げるだけでなく大阪や東京に向けて毎日電話や電報で富山の米騒動を発信しとったがです。これを受け、中央の新聞社も毎日富山の米騒動を取り上げるようになると、全国に米騒動が拡大。激化する米騒動をメディアはさらに報道し続けたがです。
こうなっては政府も黙ってはおられません。富山では、行政が新聞社に発売禁止処分を下したり、米騒動に関する記事の削除命令を出したがです。全国でも、政府から米騒動に関する報道の禁止令が出されました。これに対し、新聞社も一致団結して政府への抗議記事を出したり抗議集会を開きます。
その結果、動乱状態が治まらず、ついに当時の寺内内閣が総辞職することに。しかしながら、続く原内閣も新聞社に対して規制を続け、その年のうちに完全弾圧するまでに至ったがです。
大正7年の米騒動は、こうして幕を閉じました。

浜で育って

大成さんは、お母さまのご実家が魚津市内の真成寺町にあり、浜から近い村木小学校に通っとられました。漁師の家の子もたくさんいたそうで、その頃から米騒動の話を聞いとられたがだそう。その話は学問的なものではなく当人たちの気持ちが伝わってくる内容だったこと、そして米騒動をより身近な出来事と感じた経験から米騒動を勉強し始められました。
今は解散されましたが、「NPO法人米蔵の会」のメンバーとしても活躍されており、平成20年(2008)には魚津で起きた米騒動を題材にした『浜に立つ女たち』を出版されました。この本では、大正時代の魚津の浜の人々の暮らしや、米騒動のあとの人々の様子、浜のおっかさんたちの想いなどが描かれとります。
「米騒動発祥の地がどこかなんて肝心なことではない。富山の人には当時の人々の暮らしや時代背景から思いをくみ取り、米騒動という出来事を知ってほしい」と大成さんはおっしゃいます。
教科書の数行の出来事には、そこに暮らした人々の思いがつまっとったがです。

大成勝代さん