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第51回 達人

当時の暮らしから米騒動を知る
大成勝代さん

第51回 達人「当時の暮らしから米騒動を知る①」大成勝代さん

大正7年の米騒動

大正7年(1918)、その頃の富山の漁村のおっかさんは、その日必要な分のお米や食料をその日に買って、家計をやりくりしとられました。それもそのはず、漁師のおっとさんがとった魚の大半は網元にもっていかれ、家に持ち帰る魚が無い日もあったがです。それでも海に働きに出る漁師のおっとさんには人一倍のお米を、子どもたちにも十分な量を食べさせんとならんかったがです。おっかさんたちは、貧しい暮らしのなかで日々の家計を支えとったがで、お米の値上がりにとても敏感だったがです。
そんななか、7月中旬にシベリア出兵が新聞に取り上げられました。そこから急速にお米の買い占めや値上がりが進んでいったがです。このままでは、家族に食べさせるお米がないとおっかさんたちは一致団結してお米の積み込みをしていた船のところに行き、「米を他へ持っていってくれるな、自分らにもちゃんと売ってくれ。米の値段を下げてくれ」と懇願したがです。これが歴史で習う「米騒動」の出来事。この騒動は、家庭を守るおっかさんたちの愛情から生まれた出来事やったがです。
※おっかさん…お母さん おっとさん…お父さん

絵:『浜に立つ女たち』より

漁師町の暮らし

当時、魚津の漁師船は帆掛け船で、夕方に山から海へと吹く山風を受けて沖へと向かい、明け方に海から山へ吹く海風を受けて浜へと帰ってきたがです。漁にでるのはおっとさんですが、おっかさんも船が漁にでるまでは支度したり見送ったりし、戻ってくれば魚を市場まで運んだりと肉体労働もしとられました。子育てをしながら肉体労働をこなし、さらには家族のために家計をやりくりするおっかさんはなんとも逞しく、漁師のおっとさんはおっかさんのことが大好きだったそうながです♪女は男に仕えるというジェンダー観があった時代かもしれんがですけど、魚津の漁師町では深い夫婦の絆があったことが分かるがです。
一方、漁師たちの家は網元でない限り大抵は貧しかったため、一棟の建物を板一枚で割っただけの複数世帯が暮らす「割屋」が多かったそう。また、当時はてんこ水と呼ばれる生活用水を汲む場所が町内に一つはあったがです。水仕事をするおっかさんたちは毎日そこで井戸端会議をしとったがだとか。そのため、必然とご近所との付き合いは深くなっていったがです。ここにも漁師のおっかさんたちが団結しやすい環境があったがですね。

山風を受けて沖へ向かう 絵:谷井健三(魚津市出身・『米騒動を知る』より)
浜で網を繕う 絵:谷井健三(魚津市出身・『米騒動を知る』より)

明治時代から続く米騒動

一般的に米騒動といえば大正7年の出来事ながですけど、実は明治時代からお米の買い占めや値上げに関する抗議は度々あったがだとか。明治以降は、魚津市史の記録にいつ・どこで・誰が・どのような騒動を起こしたかが残されとります。さらに、ほとんどの騒動後に町の条例によってお米の値下げや炊き出しなど何かしらの救済措置が行われとったとも記録されとります。つまりこの時代、お米の値上がりや不作など町民の生活を脅かすことに対して、どの地域でも救済策が定められとったがです。そのため、当時の人たちはただ騒動を起こしとったわけではなく、なんとか救済措置を発動してもらおうと抗議をしとったがですね。
その後の全国的に広まった米騒動では、火をつけたり石を投げたりというような暴動もあったがですけど、富山で起きた数々の米騒動では暴力沙汰にはならんかったと言われとります。きっと、おっかさんたちからするといつもの救済措置を発動させるためのデモンストレーションだったがでしょう。でも、これが全国に騒動が広まっていく発火点となったがです。

殿:米騒動は明治時代から続いていたんじゃのぅ。