富山・黒部・宇奈月・魚津・入善・朝日のことを教えて、達人!黒部講座

恵みの多き富山 黒部の里。美しい自然に囲まれ、おいしい海の幸・山の幸が満載のまちです。そんな土地を知り尽くした達人たちに、暮らしのなかで感じる魅力を伝授してもらいます。

第45回 達人(1/2)

「宇奈月温泉の礎をつくった先覚者」

山田胖(やまだゆたか)さん

住む人のいない秘境
冬の宇奈月温泉

現在の宇奈月温泉のあたりは、その昔、人が住まない荒れ地で「桃原」と呼ばれとったそうです。江戸時代には黒部川上流にいくつか温泉があることが知られていたものの、山奥への立ち入りは禁止されとったうえ、険しい地形や積雪の多さから、人が近づくことのできない秘境だったがです。
明治・大正時代になって、全国的に電源開発の動きが活発になってくると、主要河川は電力会社が争って水利権を出願するようになりました。このとき黒部川は、山が険しいために周辺に集落が少なく、上流への交通も不便だったがで、最初はあまり注目されとらんかったがですけど、豊富な水量は水力発電にはうってつけで、続々と発電所建設に名乗りを上げる人たちが現れたがです。
日本でアルミニウム製造をしようと計画していた、富山県高岡市出身の高峰譲吉博士もそのうちの一人です。アルミニウム製造には多量の電力が必要ながで、安くて多量の電力を得られる場所でまずは発電所をつくらなくてはいけません。
初めは神通川での電源開発を計画しとったがですけど、遅れをとったために水利権を得られず、次の候補地として黒部川に目をつけたがです。

殿:現在の宇奈月温泉の姿からは想像できんのう。
黒部川の立地調査はじまる

高峰博士は、逓信省で土木技師をしとられた山田胖(やまだゆたか)さんに白羽の矢を立て、協力を求めました。山田さんは、東京帝国大学にて土木工学を修業し、卒業後は逓信省にお勤めというエリート中のエリートだったがです。しかし、高峰博士の要請に応じ、逓信省を辞めて大正6年(1917)11月、富山にやってこられたがです。このとき山田さんは31歳。さっそく黒部峡谷に入り、どこに発電所をつくるのがよいか調査を開始しました。
黒部川でも、すでに猿飛までは三井鉱山などからの出願がありました。そのため、高峰博士らが設立した東洋アルミナムは、先願者との競合を避けてさらに上流で出願したがですけど、ここもその数日前に別の人が出願しとったそうながです。大正9年(1920)2月にようやく東洋アルミナムに富山県から水利使用の許可が下りて、山田さんは同年東洋アルミナムの水力部長に就任し、本格的に黒部での陣頭指揮を執ることになりました。

立地調査をまとめた地図(黒部峡谷鉄道宇奈月駅2階に展示)
電源開発の基地

建設工事には、機械や資材のほかに多くの人手が必要ながです。計画をスムーズに進めるためには、現場近くに大勢の人が住める場所を用意する必要がありました。適した土地はないかと探したところ、ちょうど桃原のあたりが緩い傾斜の台地になっていて、これより上流には平地がないこともあり、ここを本拠地にすることにしました。
大正9年6月には桃原に事務所と社宅を建設し、従業員が住み始めたがですけど、大雪崩をおそれた地元の人たちから「桃原に住むのは危険」という忠告があったそうながです。また、当初は電気も電話もなかったがで、冬が近づくころになると従業員のなかからも不安の声があがって、冬季は山を下りて事務所を三日市(市街地)に移転させては、との意見も出ました。しかし、山田さんは将来のことも見据え、「ここを動くことはできない」と、この地で越冬することに決め、万全の対策を講じて無事に冬を越えられたがです。
水力発電所の建設計画とあわせて、工事用物資を運ぶため鉄道の建設も計画されました。大正10年(1921)には東洋アルミナムの子会社として黒部鉄道が設立され、三日市駅(現・あいの風とやま鉄道黒部駅)から線路を引く工事が始まりました。

山田胖翁顕彰碑(独楽園)

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